その日、三原は普段の帰宅時間を過ぎてもなかなか帰ってこなかった。
メールの一つも寄越さないのは珍しい。やっと玄関のチャイムが鳴ったのは夜9時を過ぎた頃だった。
「ただいま、L。遅くなってごめんな。」
そう言った三原は、両手で箱を抱えている。
「お帰りなさい。遅かったですね。なんですか、その箱。」
「ちょっと仔猫見つけてさ…。
詳しくは後で話すよ。とりあえず、靴脱ぐ間、これ預かっててくれ。」
私は箱を手渡された。
中にはタオルが敷き詰められている。その中に両手に収まるほどの小さな茶色の塊が埋もれていた。仔猫だ。汚れた毛皮の下に肋骨が浮き彫りになっている。相当衰弱しているようだ。
「さんきゅ。」
三原が箱を受け取った。
リビングに入り、床にそっと箱を降ろす。私は後について歩く。
「帰り道の途中で、弱ってるの見つけてさ。放っとけなくて、動物病院連れてったら感染症だって。処置してもらって、今夜一晩何ともなければ大丈夫だって言われて、連れて帰ってきたんだ。」
説明しながら、三原はティッシュや新聞紙やタオルや洗面器、その他猫の看病に必要そうなものをてきぱきと箱の周りに用意していく。私はただ見ているだけだ。
「うつると大変だから、お前は猫が治るまで触るなよ。大丈夫。俺が拾ってきたんだ。俺が世話するから。」
あらかた準備を終えると、箱の正面にあぐらをかいて座り込んだ。
「だから、先に寝ていいぞ。俺、今晩はコイツ見てるから。」
それだけ言って、三原はじっと猫を見つめていた。
結局その後数時間、三原は猫の前であぐらをかいたまま動かず、私は珍しく一人で寝る事になった。
ドアの隙間から明かりが漏れている。
よくあんなに集中力が続くものだ、とか、本当に徹夜するつもりだろうか、とか、三原が猫好きだったとは知らなかった、とか、つまらない事をいろいろ考えてしまって、なかなか寝付けない。これではまるで猫に嫉妬しているようだ。
まさか、ただ隣室が明るいから気になって眠れないだけだ。
私は布団から抜け出した。時計は夜2時を指している。
三原は相変わらず同じ体勢で猫をのぞき込んでいた。
「どうですか? 具合は。」
「あ、L、起きてきたのか。
うん、頑張ってるよ。」
『頑張ってる』は、三原ではなく猫に向けられたもののようだった。
タオルにくるまって、仔猫はぴくりとも動かない。一見したところでは死んでいるようにも見えた。実際、衰弱死の一歩手前と言ったところなのだろう。しかしよく見ると、口のあたりがもぞもぞと、呼吸に合わせてかすかに動いている。
こんな小さな塊が、ちゃんと生きて動いているのが不思議だった。
理解出来ないものは、好きではない。
三原はじっと仔猫を見守っている。細いヒゲが痙攣するように震えるたびに、心配そうに身を乗り出す。自分が苦しんでいるかのように眉間に皺を寄せる。
三原は本気で仔猫の身を案じているのだ。
少し驚いた。こんな風に、自分以外の何かを自分の事のように心配する人が目の前に存在している。しかもそれが、三原とは。
「? どうかしたのか、L?」
三原と目があった。
ずっと猫にかかりきりだったため、彼が帰宅してからまともに私に顔を向けたのはこれが最初だ。別に数えていたつもりはないが。
「……三原さんのこと、少し見直しました。」
三原の顔が一瞬赤くなった。
「お前もそう言うんだな。俺、そんなに普段悪いやつなのか?」
照れ隠しだろうか、ちょっと冗談めかして聞いてきた。
「少なくとも、仔猫を助けるような、心優しき正義の味方ではありませんね。」
三原はちょっと肩をすくめて見せた。
「正義の味方じゃなくても、猫助けるぐらいはするよ。俺動物好きだし。
それに、正義の味方って言うならお前の方がよっぽど当てはまるだろ。」
「……私が?」
「だってお前、この世の悪と戦う名探偵じゃん。」
そう言って三原はへらっと笑った。
私は困惑した。
確かに自分の事を正義だとは思っている。けれど、誰かのために捜査をしているつもりはない。私はただ、それが楽しいから犯人を追っているだけだ。だから興味を持った事件しか相手にしない。
私は私のために動くだけだ。
「違います。
私は誰かのために事件を解決してるんじゃありません。
私がやりたいからやっている、それだけです。
いい事をしているつもりはないし、正義の味方でもありません。」
思いがけず硬い声になった。その変化には、三原も気付いたようだ。急に真顔になった。
「俺も別に、わざわざいいことしてるつもりはないぞ。
俺は猫が好きで、この仔猫を助けたかったから拾ってきただけで、猫のためにしてる訳じゃない。
俺は俺のやりたい事をやって、それがたまたまいいことだったんだ。
お前も同じだろ?」
「違います。
私はいいことなんてしてません。それにいい人でも、まして正義の味方でもありません。」
彼は知らない。私がキラの手がかりを得るために何をしたか。
『殺して』
女の声が今でも頭の内に響く。
あの時はああするしかなかったのだ。彼女の罪と引き比べ、不当な事をしたつもりはない。
しかし、いいことをしたとも思えない。正義の味方だなんてそんな事は欠片も思っていない。
「……この意地っ張り……」
三原がぼやいた。
けれど彼に、私が何にこだわっているのか教えるわけにはいかない。
私は押し黙るしかなかった。
「……じゃ、これは?
もし俺が病気して倒れたら、お前、俺を看病してくれるだろ?」
考えるよりはやく、心のどこかが素直に頷いていた。
『ほら見ろ、お前だってちゃんといいことするじゃないか』と言うように三原がニヤッと笑う。
「……その顔は、仔猫というガラではありませんね。
かわいくないから、拾わないかもしれません。」
「悪かったな。」
三原がふざけて私の頭を軽くこづいた。どこか可笑しくて少し笑った。
頭の内の女の声が遠ざかる。
悪態をついたのは、簡単に解決されてしまうのが悔しかったからだ。
私は少し三原に感謝した。
「コーヒーでも淹れましょうか。」
私は立ち上がった。
「付き合ってくれんのか?」
「別にあなたのためじゃありません。
隣が明るくて寝付けないんです。それにあまり睡眠は必要ない体質ですし。」
「なんだ、構ってくれないから拗ねて起きてきたのかと思ってた。」
「……自意識過剰です。」
カップ二つにインスタントコーヒーを淹れ終えて、シュガーポットを片手に私は三原を振り返った。三原は再び猫をのぞき込んでいる。
「三原さん、コーヒーの砂糖、どうしますか?」
三原は答えない。ぴくりとも動かない。聞こえてないはずはないと思うのだが。
「三原さん、聞いてます?」
やっと腰を上げた。と思ったら、箱の中に手を入れて、猫の世話をしている。私の声にはまるで気付いていない。
猫の事で手一杯なら仕方がない。
心優しき正義の味方の三原には、特別サービスで、私よりたっぷりコーヒーに砂糖を入れてやろう。
糸冬
本スレ17の106-109に触発されて書いたものです。
主人公のモデルは猫三原です。
ネタにすることを快く了解してくれた猫三原、ありがとう。
きっとお前は、いい三原だ。
(・・・なんのこっちゃ。)
仔猫早く元気になるといいな。
back to index