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「竜崎も疲れてるんじゃないか?」
夜神月が帰るのを見送ると、私を振り返って夜神局長が言った。
「たまには横になって休んだらどうだ? しばらくは私たちに任せて」
私が椅子で眠っていたと松田が発言して以来、どうもますます体に気を遣われるようになってしまったようだ。
「ありがとうございます。でも、あと2、3日は大丈夫です。」
そう答えると、そばで聞いていた松田は冗談と受け取ったらしい。
「そんなこと言わずに。遠慮しないで、ほら」
笑いながら私の手を引いて無理矢理椅子から立ち上がらせ、さらにドアの方へ押し出そうとする。
背中に、生暖かいヒトの手の感触。
「やめてください。」
その感覚からするりと逃れ、松田に向き直る。彼はぽかんと口を開けて私を見ている。背中の中央、肩甲骨の下のあたりに、まだむず痒い違和感が残っている。
「……他人に触れられるのは嫌いです。
私の体に許可なく触らないでください。」
松田は一瞬気圧された表情を見せ、それから右手で頭を掻きながら
「あ……、いや、その……」
と、口ごもった。まるで、そんな風に拒絶されるなんて思っても見なかったというように。夜神局長も相沢も同じ心境なのだろう、遠巻きに私を見ている。
このような状況を気まずい雰囲気という。そんなことは知っている。だが、それがどうしたというのだ。私は現在仮眠の必要がなく、そしてなにより他人に触られるのが嫌いだ。
沈黙の中、それでも夜神局長が何か言おうと咳払いをしたが、言葉を発するより先にワタリがやってきた。
「竜崎、ベッドの用意が調っています。ここは皆さんの厚意に甘えて、少し休まれては。」
ワタリは、このまま不和を引き起こしたりすれば、捜査に支障が出ると言いたいのだろう。
そしてダメ押しとばかりにこう付け加えた。
「ベッドルームにホットミルクも用意してあります。」
……仕方がない。
「……わかりました。2時間ほど休みます。後をよろしくお願いします。」
ベッドルームのドアノブに手をかけると、背後から皆の安堵が伝わってきた。この手の煩わしいことは、やはりワタリに任せておくのが一番だ。
ベッドルームは空調や照明に至るまで居心地よく調えられ、ベッドサイドには銀のトレイの上にホットミルクの入ったマグカップとシュガーポットが用意されていた。ベッドの縁に座って、カップに角砂糖を落とす。
『…キラも死神とか何とか言ってるが、Lも相当人間離れしてるよな……』
ドアが閉まる間際にそう呟いていたのは、あれは相沢か。
「人間離れ……、か……」
4つ目の角砂糖が溶けきったのを見届けてから、私はカップに口を付けた。
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思考力に影響は出ていない。けれど、身体の方には疲労が蓄積されていたのだろう。柔らかなベッドに横になると、急に身体に眠気が襲ってきた。まるでベッドに飲み込まれ、沈んでいくようだ。身体が重い。
けれど意識はまだ疾走を続けている。めまぐるしく、脳裏を言葉が飛び交っていく。
キラ…… 第二のキラ……
大量殺人…… 被害者は主として犯罪者……
死因は原因不明の心臓発作……
条件は顔と名前…… そして、今では顔だけ……
一体どうすればそんなことが可能だろう……
どうやって……
誰が……
なんのために……
身体が眠りに沈み込んで行くにつれ、思考も無意味な言葉の束になっていく。やがてその束も、まとめられた端からバラバラにほどけていく。
なんのために……?
『新しい世界』を創る…………
そのために……悪を裁くのか…………
まるで審判者のように…………
『死神』…………
キラは…神なのか…………?
私は……神と戦うのか…………?
勝てるのか…… 神に…………
人間が…………?
『人間離れ』…………
そう言っていたのは……だれだったか…………
もしキラが…… 人間なら……
負けはしない……
とらえてみせる………… かならず…………
けれど…… 神なら………?
神に勝てるのは…… 神だけなのではないか………?
……私は……神に勝てるのか?
私は……
神にならなくては…ならないのか……?
キラ……… お前は………
神か…………… 人か………………
……私………は………
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どのぐらい時間が過ぎただろう、再び意識が暗闇の底から浮上してきた。身体はまだ眠りの中にある。金縛りにでもあったように、まぶたも開けられない。けれど感覚は異常に研ぎ澄まされていて、頬に触れる布の糊の利いた質感が妙に鮮明だった。
この状況は何度か経験があった。連日に及ぶ捜査で酷使されていた身体が、この短い睡眠の内に回復を試みるかのように、意識の支配下から離れ深い眠りの中に沈み込んでしまう。まるで『私』は身体から引きはがされ、その薄く硬い殻の内側に閉じこめられている気分だった。
半ば覚醒した状態の私は、なんの光も差さない私の身体の内側でただ身体の目覚めを待つしかなかった。キラのことを考えるべきなのだが、なんというか、気が向かなかった。
不意に、鋭敏になった感覚が近くに人の気配を察知した。
毛布とシーツの間に私以外のあたたかな何かがいる。少し熱を帯びた呼吸が聞こえる、あの感覚。
………ちがう……あの人が……ここにいるはずがない………
これもまた、何度か経験したことだった。身体が無意識に彼のことを思い出している。
もうどれほど会っていないだろう。前回会ったのはキラ捜査の始まる直前だった。空港で、別れ際に、たくさんチョコレートが詰まった紙袋を渡してくれた。全部食べきっちまう前に連絡しろよ、持ってってやるから、と言って笑った。それから、人目を気にしてだろう、抱きしめる代わりに私の額を自分の胸に押しつけて、がんばれよ、と言ってくれた。
あの時もらったチョコレートは、もうずっと前に最後の一個になってしまった。
……いけない………今は…だめだ……
つい身体につられて、彼を思い出そうとしてしまった。
今回は、どんなに会いたくても、彼と会うわけにはいかない。
第一に、キラの殺害方法がまだわかっていない。顔だけで殺せるのなら、私と接触を持ったことで彼が殺されるかもしれない。たとえ可能性が1パーセント未満でも彼に危険が及ぶことは耐えられない。いや、彼が殺される可能性があるのなら、そもそも確率なんて関係がなかった。
そしてそれ以上に、ここで彼を思い出したら、私はキラには勝てないような気がしていた。今までも、冷酷な犯人と何度も対峙してきた。しかし、この事件は明らかに異質なのだ。
想いを振り切るように重い体で何とか寝返りを打つ。やっと身体が覚醒を始めたかと思ったが、その後はまた、まるでいうことを聞かなくなってしまった。
仰向けになった額を前髪の先が撫でた。
空調で起きた風のせいだろうか。しかし私のものではない指が前髪をかきわけ、額をかすめたようにも感じた。あたたかく湿った吐息が頬に触れた気がした。
どこかに、いっそこのまま身体の感覚に流されてしまいたいと思う私がいるようだった。覚醒した意識がどんなに否定しても、眠りの中にある身体は彼を思い出していく。それはあまりにも鮮明で、記憶の再生と言うより、今改めて現実に起こっているようだった。
深い眠りの底、身体は鉛のように重くまぶたさえ自由にならない。けれども確かに、私の額には、彼の温かな手の感覚がある。
右手だ。
それはまるで不意打ちのように私の脳裏にひらめいた。
少し節くれ立って、爪の大きいあの指。私よりすこしだけ大きい手のひら。
私は、ついに思い出してしまった。
なつかしさは感じない。それよりももっと哀しくてもっと凶暴な想いが私を支配した。
私の中で、確かな輪郭と鮮やかな質感を持つその手が、なぜ今ここにないのか、どうしてこんなにも離れていなくてはいけないのか。
私の意識は身体に飲み込まれた。
彼のあの温かな手が、今、私の額にそっと触れている。
それは髪の生え際をなぞるようにゆっくりと私を撫でていく。
こめかみを通って、左の頬を手のひらが包む。親指がゆっくりと口唇をなぞる。最初は上唇を左から右へ、次にさらにゆっくりと下唇を右から左へ。
触れられたところからジリジリと熱が広がっていく。もう抗いようもなかった。
手は名残惜しそうにもう一度頬を押さえてから耳へ。髪をかき分け、からかうように耳朶をはじいて、ゆっくりと首筋へ。あごの下に、彼の指がいくつものラインをなぞっていく。
くすぐったさに思わず身をよじる。私の反応を知っていて、彼はいつもそこを優しくなぞるのだ。
右手は、十分に時間をかけて首筋を滑りおりていった。そのまま一度胸元まで下がると、今度は肩に向かう。手のひらで二の腕の外側を撫で、肘を経て、腕を通り、手の甲を通って中指の先端まで。そこから今度は手のひらの側を通って帰っていく。二の腕の内側に触れられる、くすぐったいような、じれったいような感覚がたまらない。
………やめてください………
抗議してもいつも聞き入れてくれないのだ。皮膚の下にひりつくような熱を感じる。いつの間にかうすく汗をかいていたようだ。背中に湿った布が張り付いている。
再び肩に戻った右手が、今度は胸の方へ、湿り気を帯びた肌の上を滑っていく。人差し指が『それ』に触れた。つつくように、つまむように、転がすように。刺激されるたび、痛むような、うずくような感覚が高まっていく。
「やめっ……」
押し殺していた声が漏れてしまった。
目を開けても、きっとそこに彼の姿はない。けれど確かに彼は私とともにいる。
指が、ヒリヒリを超えてビリビリし始めていたその先端から離れた。
ほっと止めていた息を吐いた次の瞬間濡れてざらついたものの感触がそこを襲う。舌先が赤く膨れあがったそれをつついている。硬い歯が軽く噛み付く。柔らかく、乾いた唇が吸い付く。神経をそのまま直に刺激されているようで、思わず頭を左右に振ってしまう。
右手が戻ってきて脇腹に触れた。彼の手の下で血が激しく脈打っているのがわかった。それはきっと彼にも伝わっているはずなのに、右手はさっきまでと同じようにゆっくりと私の体を這っていく。腰を通り過ぎ、太股の外側を滑りおりる。手のひらが一度膝を包んで、それから脛をなぞっていく。踝に辿り着いてからふくらはぎの方へ方向転換する。ことさらにゆっくりと、彼の手が私の中心へ近づいてくる。
ひどく熱っぽい吐息が聞こえる。とても自分のものとは思えない。
じれったさに気が遠くなりそうだった。そんな私を見てきっと彼は笑っているだろう。
手はやっと太腿の中程に辿り着いた。これでやっと、体中に渦巻く熱から解放される。そう思った次の瞬間、彼の手が私から離れた。次いで、胸を弄んでいた舌も。
「……ふぇ……」
情けない声を出した恥ずかしさより、喪失感の方が大きかった。
けれどまだ、確かにそこに彼の存在感がある。彼が側にいないことに比べれば、彼が触れていない喪失感なんて問題ではなかった。
呼吸が軽く落ち着いた頃、再び彼の手が額に触れた。今度は左手だ。やっと彼の意図がわかった。さっきと同じ経路で、左右反対に彼の手は私を撫でていく。あっという間に身体は熱を取り戻し、血管も神経系も無視して快感と熱の奔流が私の中を駆け巡っていく。
今度は、声を抑えることも無理だろう。滑稽なまでに荒い自分の呼吸を聞きながら、私は覚悟した。
「あっ……ぅんっ…………」
彼の両手が私の中心を包んで蠢いている。十本の指が複雑にからみつき、上下に律動している。その動きにあわせて心臓が狂ったように血流を送り出している。
身体がびくびくと震える。痛むほどシーツを握りしめているのだが、それでも止めることが出来ない。
「…は…ぅっ………っ…ぁ…あ……」
体が熱くてたまらない。火照るなどというレベルではなく、炎で皮膚の裏側から焼かれているようだ。
「っや…ぁ………んっ………く…ぅ……」
だんだんと、体中の熱が下腹部に集中していく。膝から下は、もう全く力が入らない。ただビクビクとわななき続けている。それは上半身も同じコトだった。まるで私の身体も意識も熱に溶けて消えてしまったかのようだ。
ただ一部、彼の手の中にだけ、私は残っている。
「っふあっ……ぁ…あ……!」
一度強く、彼の手が私を扱いた。
意識がぐらりと大きく揺らいで白濁していく。
続けて、二度、三度………
「ひぅっ………ふぁっ…うっ………ぅぁ…あ……ああっ……!」
その瞬間、あまりの刺激に私は体を反らせて硬直した。
反射的に大きく目が見開かれた。
暗闇の中に、会えるはずもない彼がいた。
「 ……………っ!!」
彼の姿を目に焼き付けながら、私は射精した。
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キラは人だろうか、神だろうか。
人は、神に勝てるのだろうか。
私は、神に、人ではない何かにならなくてはならないのだろうか。
『がんばれよ』
そう言ったあなたのことを思い出す。
目の奥が、胸の奥が痛くなる。
会いたい。
私は、あなたに会いたい。
理性で切り捨てることが出来ない。
私は、神にはなれない。
「……勝てないかも……しれません………。
負けて帰ってきても……許してくれますか………?」
せめて今はあなたの腕の中で眠りたかったのに、身体の熱とともにゆっくりとあなたの感覚は薄れていく。目覚めが近づいてくるのが哀しかった。